キネマ103:モノローグ『怡君(イジュン)が会議中に考えていること』
更新日:2 日前
会議室のクーラーは今日も容赦なく効いていて、手元に置いた手搖杯(テイクアウトカップ)の四季春茶には、じっとりと冷たい水滴がまとわりついている。
前方では、ホワイトボードに映し出されたInDesignのラフ画面を背にして、ジンイーが静かに、けれど確かな熱量を持ってプレゼンをしている。
「今回の日本旅行企画ですが、単純な消費としての旅ではなく、現地の『余白』を楽しむ構成にしたいんです。例えば、瀬戸内の島々の海沿いを走るローカル線や……」
理路整然とした言葉選び。無駄を削ぎ落とした心地よいリズム。企画編集担当としての彼女は、いつだって完璧だ。
私は手元のiPad ProでApple Pencilをくるくる回しながら、デザインのメモを取るふりをして、ひたすらジンイーを観察している。
可愛いものが好きだ。路地裏で見つけたアンティークのボタンとか、少し形が不格好なクッキーとか。
でも、もっと好きなのは、「完璧なものが、ほんの少しだけ崩れている」のを発見したとき。
だから今、私は一人で猛烈にときめいている。
ピシッとアイロンのかかったネイビーのシャツを着て、涼しい顔で完璧なプレゼンをしているジンイーの、後頭部の少し右側。髪の毛が一束だけ、ぴょこんと跳ねている。
……寝癖だ。
あの几帳面な人が、今朝鏡の前でこの一房の反抗に気づかなかったなんて。その無防備な隙があまりにも愛おしくて、Pencilを握る手にぐっと力を込める。
ジンイーが手元の企画書のページをめくる。指先が紙と擦れる、かすかな音。
私はその音を聞くだけで、彼女が今つるつるしたコート紙を触っているのか、それとも少しざらつきのある微塗工紙を触っているのか、確実に当てられる自信がある。
ジンイーがいつも校正用の赤ペンを握る右手の、中指の第一関節にある小さなペンだこ。あの少し硬くなった皮膚に、こっそり自分の指先を押し当ててみたいという衝動を、冷たいお茶と一緒にごくりと喉の奥へ流し込んだ。
ガサツな兄と無神経な弟という男兄弟に挟まれて育ったせいか、私には昔から「お姉ちゃん」という存在への、ほとんど信仰に近い憧れがある。
休日の午後に一緒におしゃれなカフェに行って、洋服を貸し借りして、他愛もないおしゃべりをする架空のお姉ちゃん。
ジンイーと一緒にいると、その長年の夢がどうしようもなく疼き出す。ああ、ジンイーが私のお姉ちゃんだったらいいのに。
最近の私は、自分で自分が少し怖い。小学生のとき、授業中にうっかり担任の先生を「お母さん!」と呼んで教室が静まり返ったあの恐ろしい現象のように、ふとした瞬間にジンイーに向かって「ねえ、お姉ちゃん(姐姐)」と口走ってしまいそうになる。
ジンイーが私のデスクの横を通ったあとにふわっと残る、石鹸のいい匂い。彼女が使ったマグカップの縁にうっすら残るリップの跡。そんな小さな痕跡を見つけるだけで、秘密の宝物を見つけたみたいに心臓が跳ねる。
どうにかして合法的に、ジンイーを「私のお姉ちゃん」にできないか。夜な夜なベッドの中で真剣に考えている。
一番手っ取り早いのは、うちの兄とジンイーが結婚することだ。そうすれば戸籍上も「義姉」になる。お正月には同じテーブルで火鍋をつつけるし、「義姉さんに用事があるから」という完璧な口実で、いつでも彼女に会いに行ける。完璧な計画だ。
ただ、致命的な問題がひとつだけある。
うちの兄は、太っている。背が高くクマのよう。
原因は明白だ。あんなに図体が大きいくせに、週末になるたび『紅茶圖書館』なんていう、名前からして兄には似合わないロマンチックで可愛いパティスリーに通い詰めているから。可愛い箱に入った繊細なお菓子を、丸太みたいな指でつまんでは嬉しそうにパクパク食べている。
「お兄ちゃんは、Chiate(佳徳糕餅)でパイナップルケーキでも買って来てよ。あそこ、いつも行列ができてるでしょ?」
「紅茶図書館みたいな可愛いお店、お兄ちゃんには似合わないからやめてよ」
先週末、嬉しそうに箱を開ける兄にそう言い放ってやった。佳徳のパイナップルケーキなら私も好きだし、あの行列に並ばせれば少しはカロリーも消費するかも。ジンイーが「痩せた人が好きだ」と言ったわけではないけど....。
とにかく、もっとジンイーの静かな空気を壊さず、生活の細やかな美しさを一緒に楽しめる人間……たとえば、私みたいな人間の方がずっと合うのに。
「……イジュン、このメインビジュアルの配置、デザイン側から何かある?」
不意に名前を呼ばれて、心臓が跳ね上がった。
ジンイーが、あの真っ直ぐで少し色素の薄い瞳で私を見ている。
「あ、ええと……っ」
慌ててiPadの画面に目を落とす。そこにはレイアウトのラフ案なんてなくて、跳ねた寝癖のあるジンイーの後ろ姿が無数にスケッチされていた。息を止めて、急いでそのレイヤーを非表示にする。
「……写真の周りの余白(マージン)をもう少し広くとれば、ジンイーの言う『現地の静けさ』がもっと視覚的に伝わると思います」
「なるほど。じゃあ、午後にそのバランスで一回で組んでみてもらえる?」
「はい、わかりました」
打ち合わせが終わり、ジンイーがホワイトボードの文字を消し始める。
私はiPadを胸に抱えて、彼女の後ろ姿を見つめた。
あの、ぴょこんと跳ねた寝癖。そーっと指で撫でて直してあげたい。
ジンイーを私のお姉ちゃんにするための、記念すべき第一歩。
とりあえず今週末、兄が買ってくる『紅茶圖書館』の可愛いお菓子を先にぜんぶ私が食べよう。
道は遠いけれど、悪くない。
私は残りの四季春茶を一気に飲み干して、彼女の待つデスクへと歩き出した。



コメント