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キネマ103『ドリンクホルダーと2600光年の光』

9月14日
読了時間: 8分

更新日:2 日前

19時。


バスを降りた瞬間、思っていたより寒かった。

台北を出るときには半袖でも暑かったのに、合歡山まで上がってくると、空気がまるで違う。


「寒いね、」


続いて降りてきたスーユー(思妤)が、腕をさすった。

彼女はキャビンアテンダントをしている。 学生時代からの友人で、仕事では世界中を飛び回っている。

長いフライトのあとでも、またどこか別の国へ行きたがる。

そんな彼女でも、台湾の山は少し特別みたい。


「星、よく見るんじゃないの?」


私が尋ねると、スーユーは答えた。


「機内から見るのは雲。星じゃないよ」


「えー、どっちも空にあるじゃん!」 そう言って笑った。



私たちが来たのは、合歡山暗空公園の鳶峰。 標高の高い山の上では、街の明かりが遠い。

車のライトが消えると、周囲の暗さが急に濃くなった。


「スマホの画面、暗くして」


スーユーが言った。


ここでは、スマートフォンの画面でさえ明るく感じる。

広場には、いくつもの望遠鏡が並んでいた。 スタッフの人が星空を見上げながら、今夜見える星を説明している。

私たちもその輪の中に入った。


「ほら、あっち」 空を指差されても、最初はどれがどの星なのか分からない。

「明るいあの星が……」 説明を聞きながら、みんなが同じ方向を見上げる。

しばらくすると、目が暗さに慣れてきた。 さっきまで見えていなかった星が、ひとつ、またひとつと浮かんでくる。


「うわ...星がめちゃ多い!」



「台北じゃ見えないでしょ?」


「少しは見えるよ」


「でも、こんなのじゃない」


その言葉のあと、二人とも黙った。


雲が流れてきた。 山の天気は、さっきまで晴れていたと思ったら、数分後には白いモヤが目の前を横切る。

星が消える。 そしてまた、雲の切れ間から現れる。 天の川も、見えたり見えなかったりする。


「誰かがずっと電気をつけたり消したりしてるみたい」


「山の天気って、こういうものだよ」


首を上げたまま、しばらく星を探した。 三分もしないうちに、首が痛くなった。


「首、痛い」


「私も」


一度下を向く。


「私たち、長いこと上を向いてなかったんじゃない?」


「毎日スマホばっかり見てるからね」


そう言ったところで、遠くから機械が唸る音が聞こえた。

夜空に向かって大砲のように突き出していた巨大望遠設備が、ゆっくり動き始めた。


「動いてる」


二人とも、また顔を上げた。今度は首の痛みなんて忘れていた。

望遠鏡が止まる。それを合図に私たちは、巨大望遠鏡施設の階段をのぼりはじめた。


「ほら、覗いてみて」


望遠鏡は巨大でものぞき穴は小さい。目を細めてみると、小さな輪のようなものが、暗い宇宙の中に浮かんでいる。

M57リング星雲。説明によると、私たちが見ているのは約2,600光年離れた場所にある星雲だった。


「2,600光年?」 「うん」


私はしばらく何も言えなかった。2,600年前。 そんな昔に放たれた光が、今夜ここまで届いている。


「これは、星が最後に残した光なんだって」


スーユーが小さな声で言った。


星そのものが、そこにあるわけではない。星が最後に放ったものが、宇宙に残っている。

でも、その説明を聞いたら、急に遠い宇宙が少しだけ近くなった気がした。


「ちょっと寂しいね」


「でも、きれい」


私はまた望遠鏡を覗いた。今度はさっきより長く見ていた。

20時半を過ぎた頃。 庭のほうへ移動すると、今度は小さな天体望遠鏡が置かれていた。


「みんな何を見るの?」


「土星みたい」


順番を待って、望遠鏡を覗く。


「……わぁ。」


思わず声が出た。そこにあったのは、図鑑で何度も見た土星だった。

黄色がかった丸い惑星。 その周りを、きれいな輪が囲んでいる。

しかも、ただ輪が見えるだけではない。 輪の影が、土星の表面に落ちているのが見えた。


「本当に図鑑そのままだね」


「写真じゃないよ」

「本当に、あそこにある」


スーユーが笑った。


「今の顔、小学生みたい」


「そっちこそ」


また笑った。そのあとも、私たちは何度も望遠鏡を覗いた。 星を見て。 雲を見て。 また星を見た。

気づけば、最初に首が痛いと言ってから、もう二時間近く経っていた。


不思議だった。 さっきまで痛かった首は、もう痛くない。 私たちはずっと空を見上げていた。


「気づいた?」


「何?」


「私たち、二時間も空を見てた」


「うん」


「しかも、今は首が痛くない」


私は笑った。


「私たちって、下ばっかり見すぎなのかもね」


「スマホ・仕事・メッセージ。あと、どうでもいいものもいっぱい」


二人で笑った。空には、まだ無数の星があった。


21時近く。


「お腹空いた」


スーユーが突然言った。


「さっき食べたばっかりじゃない?」


「もう三時間前」


「時間の感覚、独特だね」


スーユーは笑いながら、仕事用のバッグを開けた。 そこから、小さな包みを取り出した。


「じゃーん」


「何それ?」


「柴焼龍眼桂圓酥」


龍眼を使ったお菓子だった。


「星を見に来て、こんなの持ってきたの?」


「もちろん」


「なんで?」


スーユーは包みを手の中で確かめるようにひっくり返してから、私に渡した。


「だって、龍眼を使ったこのバージョン、いつでもあるわけじゃないんだよ」


「今の季節だから持ってきたの?」


「うん」


「こういう、季節を感じるものが好きなの」


そう言ってから、私は袋を開けた。 頬張ると、ふわっと、バタークッキーの甘くて香ばしい味がした。

その奥に、少し燻したような香りがある。


「美味しい。それに、この香りがすごく好き」


私が言うと。


「どの香り?」


「少し燻製みたいな?」


スーユーはそう言って、目を細めた。


「そうでしょ。甘いんだけど、少し煙で燻したみたいな香りがあるの」

「こういうの好きじゃないかと思って」


どこかうれしそうな顔。


「飛行機の中でも、こういうの食べるの?」


「食べるよ」


「仕事のバッグには、よく台湾のものを少し入れてるの」


「なんで?」


スーユーは少し考えてから、空を見上げた。


「私、いつも海外にいるでしょう」

「飛行機を降りたら、もう別の国」

「遠いところまで飛んでいくと、急に台湾の味が恋しくなることがあるの」

「だから、少しだけ持っていたいの」

「別に、必ず食べたいわけじゃない」

「ただ、バックに台湾のお菓子が入ってるだけで、なんとなく安心するの」


私は思妤を見た。さっきまで星の話をしていたときより、少しだけ大人びた顔をしていた。


「台湾が恋しいんだね」


「たまにね」


「でも、家に帰りたいっていう感じじゃない」

「どちらかというと……」


彼女は少し考えた。


「慣れたものを、少し一緒に連れて歩きたい感じ」


私は何も言わず、龍眼桂圓酥をひと口食べた。

甘い。そのあとに、やっぱりほんの少し燻したような香りが残る。 山の冷たい空気の中では、その香りがいつもよりはっきり感じられる気がした。


「台湾で一番高い場所にいる龍眼ケーキだね」


「そう」


「しかも明日はもっと高いよ」


「もっと?」


「どういう意味?」


スーユー は微笑んだ。


「私、明日の深夜からフライトだから」


「じゃあ、このお菓子明日はどこまで高く飛ぶの?」


私は冗談で聞いた。 スーユーはすぐに答えた。


「今は、まだ山の上だから、3,000メートルちょっとでしょ」


「飛行機に乗ったら?」


「3万フィート以上」


「じゃあ、本当に合歡山より高くなるね」


「当然」「私についてくるお菓子は、どこへでも行けるから」


私は笑った。


「機内で食べると美味しい?」


スーユーは少し考えるふりをした。


「もちろん」


「なんで?」


「だって、機内食より絶対美味しいでしょ?」


「……無敵じゃん?」


二人で吹き出した。袋を閉じる。


「これは明日まで取っておく」


「明日はどこ?」


「ドバイ」


「じゃあ、この龍眼酥もドバイへ行くの?」


「もちろん」


「台湾のお菓子も海外出張ね」


「私と一緒」


また笑った。


そのときだった。遠くの空を、小さな光が動いていった。

ゆっくりと。 星の間を横切るように。


「飛行機」


スーユー が言った。機体の小さな光が、天の川の淡い光の中を進んでいく。


「天の川の中を飛んでるみたい」

「もし今、あの飛行機に乗っている人が下を見たら?」


「私たちが見えるかもね」

「山の上で龍眼ケーキを食べてる二人」


「変なの」


「でも、いいね」


飛行機の光が、星の間を進んでいく。 その光が見えなくなるまで、私たちは何も言わなかった。

スマートフォンも見なかった。 仕事の話もしなかった。 ただ、空を見ていた。


「ホテルへ帰るバスが出るよ」


「帰ろうか」


「うん」


最後に、もう一度空を見上げた。首は全く痛くなかった。


バス乗り場へ向かう途中、出張カフェでホットミルクを2つ買った。

大型バスのステップを二段上った先の車内灯の明るさに少し目が痛くなる。

逃げるように座席に座り、しばらくぎゅっと目を閉じてからゆっくり開くと、

不意に思妤の手がワタシの目の前に伸びる。


「ちょっと置かせて」


見るとさっき買ったホットミルクだった。


「自分のドリンクホルダーに置きなよ」


そう言いながら、スーユーの座席に目をやると金属のホルダー自体が取れて、修理されていないよう。

そのうえで私は言う。


「これはワタシのホルダーだから」


「さっきまで宇宙の話してたのに、今度はドリンクホルダーの話?

 急に現実的過ぎない?」


「このホルダー宇宙の中心はワタシのミルクなの」


お互いのやり取りにフッと笑いがこぼれる。


また、すぐに街の明るさに慣れたとしても、今夜の空を想うと 今度からは少しだけ星が近く見えるはず。

そんな気がした。



 
 
 

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