キネマ103:『曖昧な境界にアメ』
更新日:2 日前
朝8時10分。
台北のMRT、中山駅で降りて、いつもの道を歩く。
バイクの音、信号の音、店先から聞こえてくる話し声。
台北の朝は、静かになることがない。
朝の店先では、シャッターを半分だけ開けた店の奥から店員の声が聞こえる。
歩道の端には小さな植木鉢が並び、建物と建物の間の細い路地には、もう配達のバイクが入っている。
人が歩く場所と、店の中と、道路との境目も、東京ほどはっきりしていない。
騎樓を歩いていると、店先の椅子に座って朝ごはんを食べている人がいたり、
開け放した扉の向こうでテレビの音が聞こえたりする。
台北では、家の中と外の間に、少し曖昧な場所がある。
騎樓もそうだ。 雨を避ける場所でありながら、完全な「外」でもない。
店の人が椅子を出せば、そこは店の一部になる。
誰かが立ち止まれば、近所の人との小さな会話が始まる。
私はそんな街の境目を、いつものように通り過ぎた。
空を見ると、今にも雨が降りそうだった。
けれど、台北では「雨が降るかもしれない」くらいでは、わざわざ予定を変えない。
傘を持っていない人も多い。
降ったら、騎樓に逃げ込めばいい。
店先で少し待てばいい。
そういう気軽さが、この街にはある。
会社に着くころには、スマートフォンにいくつか通知が入っていた。
著者からの原稿。デザイナーからの確認。午後の打ち合わせの時間変更。
仕事の段取りを考えない日はほとんどない。
編集者という仕事は、誰かが作ったものを、誰かに届く形に整える仕事だ。
文章を直す。順番を考える。足りないところを補う。
誰かの「こうしたい」を聞いて、「では、こうしましょう」と答える。
それが嫌いなわけではない。むしろ好きだ。
午後になって、窓の外が急に暗くなった。と思ったら、雨。
台北の雨は、いつも突然だ。さっきまで歩道を歩いていた人が、いっせいに騎樓の下へ入ってくる。
バイクに乗った人は道路脇に止まり、コンビニの軒先には傘を持たない人が何人か並ぶ。
雨粒がアスファルトを叩き、車が水を跳ね上げる。
窓を閉めても、遠くから聞こえるバイクの音と雨の音は完全には消えない。
雨の日の台北は、街の輪郭が少しだけぼやける。
騎樓の向こうに見える人影。 濡れた道路に映る看板の明かり。
店先から外へ流れてくる料理の匂い。
街の中に、家や店や道路が重なっているように見える。
「また雨だね」
後ろから声がした。振り返ると、イジュン(怡君)が立っていた。
20代でデザイナーの彼女は、いつも人懐っこい。
年齢は私よりずっと下なのに、不思議と気が合う。
「傘、持ってないの?」
「持ってない。」
「え、なんで?」「傘さすの嫌いなの?」
「今日は本当に忘れたの」
わざと質問攻めしてくるイジュンに両手の平を見せるポーズで「いい加減にして」と答えながら、私は笑った。
雨はさっきより強くなっている。
「ランチに行くなら、私の傘に入る?」
怡君がバッグを指した。
「それとも、一緒に濡れちゃう?」
私はイジュンの顔を見た。
「それは嫌だ。」
一瞬、間があって、二人で笑った。
「ありがと。でも、今日はランチ抜きなの。打ち合わせで移動しなきゃ」
「そう,,,」
その次の間は雨音が埋めた。
ふいに、イジュンがバッグの中から小さな箱を取り出した。
「これ、あげる」
見覚えのある紺色の箱だった。
「紫玉酥?」
「そう。大甲から買ってきたの」
裕珍馨の紫玉酥。パイ生地の中にタロイモ餡と白いお餅が入っている、私が子どもの頃から知っているお菓子だ。
「うちのお母さん、これが大好きなの」
「台中に行くたびに買ってきてって言うの」
「台北でも買えるのに、台中の本店がいいんだって」
「あなたに会いたいんじゃない?」
私は少し笑った。
「私も子どもの頃、よく食べてた」
「本当?」
「うん。親戚が台中から帰ってくると、ときどき買ってきてくれた」
二人で顔を見合わせた。
20代と30代。生まれた時代も、今の暮らし方もずいぶん違う。
それなのに、子どもの頃に食べていたお菓子は同じだった。
「じゃあ私たち、共通の思い出があるね」
イジュンが、少し嬉しそうに言った。
「そうみたいね」
私は箱を机の上に置いて1袋取り出した。
「自分を大切にする人にならないとね」
突然、イジュンがそんなことを言った。私は笑った。
「どうして急にそんな話?」
「だって、人は自分らしく生きないと」
イジュンは本気でそう思っているようだった。
少しおどけながら、それでも明るく。 私は肩をすくめた。
「なんか急に真面目な話になったね?」
「だね?」
二人で笑った。
紫玉酥を1袋バッグに入れて、家に着いたのは、夜の8時を少し過ぎた頃。
台北の夜は、家に帰っても街の気配がすぐには消えない。
窓の外からバイクの音が聞こえる。近くの店から、人の話し声もする。
ベランダの向こうには、まだいくつか明かりがついている。
台湾の家は、外の街と完全に切り離されているわけじゃない。
窓を開ければ、料理の匂いや雨上がりの湿った空気まで入ってくる。
家の中にいても、少しだけ街の中にいるような感覚が残っている。
私はテレビをつける気にはならなかった。
スマートフォンも、今日はいい。
冷蔵庫からろ過しておいた水を出して、お湯を沸かした。
茶葉を急須に入れる。湯気が上がる。
お茶の香りが少しずつ広がっていく。
私は紫玉酥をひとつ、皿に置いた。
子どもの頃と同じように、少しもったいない気がした。
昔はナイフで半分にして、さらに半分にして、四分の一ずつ食べた。
今日も、なんとなく半分にしてみた。
パイ生地にナイフを入れると、ほろほろと崩れる。中には、紫色のタロイモ餡。
その真ん中に、白いお餅が入っている。
ひと口食べるとしっとりしたパイ生地が崩れる。
タロイモ餡は甘すぎず、最後に柔らかなお餅が少し冷たく下に吸い付く。
子どもの頃に食べた味が変わらず迎えてくれる。
私は何もせず、お茶を飲みながら紫玉酥を食べた。
そのとき、昼間のイジュンの言葉をふと思い出した。
「自分を大切にする」「自分らしく」
昼間は、少し大げさな言葉に聞こえた。でも、今なら少し心に入る。
自分らしく生きるというのは、何か大きなことを始めることではないのかもしれない。
仕事を変えたり、どこか遠くへ行くことでもない。
今日、自分が食べたいものを食べる。
自分のためにお茶を淹れる。
スマートフォンを伏せる。
誰にも急かされない時間を、ほんの少し残しておく。
それだけでもいいのかもしれない。
紫玉酥をもうひと口食べた。
「今日は、これくらいでいい」
そう思った。
翌朝。 いつもより早く出社すると、イジュンが先に来ていた。
「昨日、食べた?」
「うん」
「美味しかった?」
「美味しかった」
そう答えてから、私は少し考えた。まだオフィスには二人だけ。
「昨日言ってたこと、なんとなく分かった気がする。」
イジュンがこちらを見る。
「何が?」
「自分を大切にするとか、自分らしくとか。」
「昨日、家に帰って、お茶を淹れて、紫玉酥をゆっくり食べたの。」
「うん」
「そうしたら、なんとなく分かった。」
「その言葉、前は、もっと大きなことをしろって言われてるみたいに聞こえてたの。」
「でも昨日は違った。」
「ただ、自分のために少し時間を残しておけって言われてるみたいだった。」
イジュンは少し黙っていた。
「実は...」
「私、今日はそんな気分じゃないんだよね」
「え?」
私は思わず笑った。
「じゃあ、昨日のは何だったの?」
イジュンも笑った。
「知らないよ」
「だって、昨日と今日は気分が違うんだもん」
「それ、ずいぶん勝手ね」
「そうだよ」
二人で笑った。 イジュンはバッグから何かを取り出した。
「もう一個あるよ」
また紫玉酥だった。私は呆れて笑った。
「早く来たのに、仕事しなくていいの?」
「あとで」
窓の外では、また雨が降り始めていた。
昨日の私は、少しだけ前向きだった。
今日のイジュンは、そうでもないらしい。
たぶん、それでいい。 毎日、同じ気持ちでいなくてもいい。
前向きじゃない日があってもいい。
それでも、自分の好きなものを好きだと思える時間くらいは、残しておこう。
紫玉酥をひとつ、今日のいつかの時間のためにお守りのようにそれをバックに入れた。






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